どのレベルの人に嫉妬するかが実現できる人生の規模感を決めるのではないか

人間には嫉妬の感情があり、自分が望んでいるもの、あるいは望んでも手に入らないものを持っている人に対してそういう感情を抱くものだと思います

そういう感情とどのように向き合い、またその感情をどう活かしていくかは、自分の成長を追求していく上ではとても大切ですよね

いわゆるメタ認知という概念がありますが、自分が嫉妬しているという状況を客観的に捉えて、その感情を感じ、まぁ出来ればそんな感情は抱きたくないものですが、自らを高める方向に運ぶことは非常に重要だと思います

私の持論としては、嫉妬の感情を抱いた時に重要なのは、誰を攻撃するか、ということだと考えています

嫉妬している対象、相手に対して攻撃的な言動、行動を取ることも出来るし、一方で嫉妬の感情を抱いている自分に対してその感情をぶつけ、もちろんそれによって苦しみもあるのですが、その苦痛を乗り越えて自分の成長に繋げていくことも出来るという訳です

そういう意味で、相手を攻撃するのか、自分を攻撃するのか、という風に捉えることが出来るのではないかと思うのですが、もちろんいつも自分に対して嫉妬の感情をぶつけることは難しいですし、嫉妬の感情に捉われてしまうこともあると思うのですが、出来れば乗り越えて自らを高めていきたいものですよね

前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題に入ります

自分の人生と向き合う

自分がどこまで行けるか、どこまで成長できるか、どの程度大きな結果を残せるかを決める大前提として、自分がどのレベルの望みや願望を抱くかということがあると思います

あくまでも自己実現レベルに限った話であり、人生大変な苦しい思いをすることも望んだことなのかと言われたらそうではないということを断っておきたいのですが、良くも悪くも人生と言うのは自分が望んだ範囲にしか実現できないのではないかと考えています

そう考えるように至った経緯としては、私が20歳ぐらいの頃、自暴自棄になって、自分の人生なんてどうでもいいや、そういう風に考えていたことがありました

自分に降りかかった不幸を憎み、人生を、自分の様々な願望を諦め、悲観的に生きることで、どこか自分を守っているところがあったのではないかと思っています

目の前の現実から逃げて逃げて逃げて逃げまくり、そうやって自分をある意味納得させようとしていたのかもしれません

そういう日々を送っていた中で、これは今考えていたら当たり前なのですが、やはり良い結果や現実というのが自分にもたらされることはなく、逃げても逃げても、自分に降りかかってきたのは辛い現実だったように思います

でも、そういう時にふと気づくことがありまして、そういう思わしくない現実を望んでいるのは自分なのではないかということです

自分の人生なんてどうでもいい、別にもう諦めたと自分に言い聞かせて、そうやって日々を過ごしているからこそ、そういう想いに相応しい現実が自分にもたらされていたのではないかと

先ほども言ったようにこういう言い方をするととても語弊があるのですが、例えば事件事故に巻き込まれるだとか、命の危険にさらされるとか、身内に不幸があるとか、そういう出来事を自分が望んだことだと言いたいのではありません

実際に自分もそういう出来事に遭ったことがあるというか、実際今もそういう状況にあったりするのですが、そういう出来事を「自分が望んだんでしょ?」と言っているのではないのです

かなり表現が難しいのですが、人生生きていたら様々な困難や不幸に遭うことはありますが、きっと大切なのは、苦しい状況であっても希望や理想を捨てることなく、そういう自分の想いから逃げることなく、日々絶望的な感情を引きずりながらも、その遠くに見える光に向かって生きていくことではないかと

どのレベルの人に嫉妬するのか

冒頭に引き続き、さらに話が脱線してしまった感じがしますが、ではそのようにして何とか自分の人生と、自分の気持ちや願望と向き合えるようになったとして、そうするとどうしても嫉妬の感情と言うのは絡んでくると思います

自分がこうなりたい、こういう人生にしたいと思っていたとして、既にその理想を実現している人がいたら嫉妬してしまうのが人間ですよね

で、これが私がこの記事を通して最も言いたい事なのですが、どのレベルの人にそういう嫉妬の感情を抱くのかが、自分がどこまで行けるのか、どのレベルの理想を実現できるかに大いに関係しているのではないかということです

例えばですが、かなり規模が大きな話になってしまいますが、バドミントン界のレジェンドに、先日国家代表からの引退を発表したリンダン選手がいますよね

人によってはリンダン選手みたいになりたい、そういう憧れを抱いたり、ファンになったりすると思います

でも、もしリンダン選手と同じかそれ以上に結果を出したいと思っている人がいたとしたら、その人にとってはリンダン選手は嫉妬する対象であり、越えなければいけない、越えたいと思う存在となるということだと思います

そして、リンダン選手を超えることが出来るのは、そういう想いをもつ人だけなのではないでしょうか

超えたいと思わなければ超えることは出来ない、そういう意味で、誰に、どのレベルの人に嫉妬するかと言うのが、その人がどのレベルの理想を実現するかに大きな影響を与えるのではないかと言うことです

もちろん、理想が高ければ高いほど、抱く嫉妬の感情も大きいし、頻度も多いでしょうから、その理想を実現することは並大抵のことではないと思います

しかし、やはりせっかく人生を生きているのであれば、出来るだけ多くのことを、大きなことを望みたいと私は考えてますし、これは諦めてばかりいた過去があるこそそう考えるのだと思うのですが、出来ればそういう想いを持って生きていきたいと考えています

言っておきますが、私がリンダン選手を超えたいと思っている訳ではないですよ笑

私は私で、あまり人に言うのも恥ずかしいですが、自分なりに自分の限界を超えるような目標を持って生きているつもりではいます

だからこそではないですが、もちろん自分が望まなければ望む必要はないとは思うのですが、もし少しでもこうなりたいという理想があるのであれば、そういう気持ちから目を背けることなく、苦しみを抱きながらも、少しでも多くを望み、限られた人生を生きていくことが重要なのではないかと思います

まとめ

以上、かなり偉そうなことを申し上げてしまいましたが、人生生きていく上で私が大切だと思うことの一つの生き方と言うか、考え方みたいなことをつらつらと書かせて頂きました

今回の記事に関しては、恐らく反発を頂くことがありそうな気がしてならないのですが、それは仕方がないことなのかなと思います

出来るだけ語弊がないように努めた部分もあるのですが、それでも「オマエに何が分かるんだ?」みたいな感情を抱かれた方もいらっしゃるかと思います

そういう意味で不快な思いをさせてしまった方には申し訳なく思うのですが、それでも今回のことは生きていく上で大切なことだと思うので、公開させて頂くことにしました

今回も最後までお読み下さりありがとうございました

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